粟生光明寺 円光大師像

法然の死後15年を経た嘉禄3年(1227)、比叡山の僧徒が大谷の地にある法然の廟を暴き、
遺骸を鴨川に流そうとする嘉禄の法難が起こります。

遺骸は石棺に納められて嵯峨へ遷されますが、
石棺の間から光明が放たれ粟生の地を指したので、遺骸は再び粟生(長岡)の地へ遷されました。
翌1228年1月25日法然17回忌の日に火葬に付され、光明寺に宗祖本廟が祀られました。

法然は我が廟を一ヶ所とすれば仏の教え広がらずと遺言し、
遺骨は弟子たちにより分骨され、法然の廟は各地に残されています。
光明寺には石棺と円光大師火葬塚が残されています。



  円光大師石棺