金戒光明寺

文久2年(1862)の京都の街は、
攘夷過激派の天誅と呼ばれた暗殺行為で不安な情勢でした。

幕府は京都の治安を守るため、会津藩主松平容保に京都守護職を命じます。
会津の家老西郷頼母は、「薪を背負って火を防ぐようなものだ」と
負担の大きいその大役に反対しましたが、
容保は幕府への忠誠心から引き受けます。

容保は1千の兵を率いて12月に入洛し、金戒光明寺を本陣とします。
黒谷さんとして親しまれている金戒光明寺は、
知恩院とともに徳川氏の京都防備のために、
境内は城郭構造となっていました。

それからの容保は、京都見廻り組や新撰組を配下に、
王政復古が発令され京を去るまで、幕末の5年間を京都守護職として勤めました。

塔頭の西雲院の墓地には、
会津殉難者の墓と鳥羽伏見の戦いの戦没者の慰霊塔があります。

            高麗門 京都守護職本陣木札                     金戒光明寺 御影堂 

                                 

                  山門                              会津藩殉難者墓地