大覚寺 大沢の池
平安朝の初め、この地には嵯峨天皇の離宮嵯峨院があり、
嵯峨天皇の皇女正子内親王は、ここに寺を建て真言宗大覚寺としました。
その後、後嵯峨上皇、亀山法皇、後宇多天皇が入寺され
、世に嵯峨御所と呼ばれる門跡寺院です。
南北朝時代、亀山法皇の皇統は大覚寺統として、持明院統と対立しました。
しかし、明徳3年(1392)後亀山天皇はこの大覚寺「剣璽(けんじ)の間」で、
後小松天皇に三種の神器を譲り、南北朝統一の講和が行われました。
応仁の乱、それに続く戦乱によって寺は荒廃しましたが、
江戸時代初期後水尾天皇によって旧殿が下賜され、宸殿、客殿など復興されました。
細い花弁が茶筅状に咲く嵯峨菊は、大沢の池の菊島に古来自生する門外不出の名菊です。
嵯峨天皇がこの菊を手折って壺に活けられたことが、嵯峨華道の始まりとされます。
大覚寺 五大堂(本堂 嵯峨菊
紅葉の霊明殿 正宸殿(重文)奥「御冠の間」
その後ろに「剣璽の間」がある