足利義尚 鈎の陣

京都の華やかな歴史の影で、
古来近江はその裏舞台としての役割を果たしてきました。
応仁の乱以降の足利将軍は、京の戦乱を逃れ近江の各地に足跡を残しています。

将軍義政の後を継いだ9代義尚は、長亨元年(1487)9月、
応仁の乱において社寺や貴族の荘園を奪った六角高頼討伐のため近江へ出陣しました。
義尚の構えた鈎の陣の碑は、栗東市上鈎の池の堤に建っています。
本当の陣跡は真宝館といって、そこから西へ歩いて10分ほどの永正寺にありました。
現在も境内には土塁の跡が残されています。

六角高頼は観音寺城から甲賀郡に逃亡しましたが、
ゲリラ戦は続き、義尚はこの地に仮幕府を置いて長期滞陣となります。
その間陣中とはいえ、義尚は和歌や猿楽などの宴や、酒色におぼれる生活が続き、
1年5ヶ月後の延徳元年(1489)3月、25歳の若さで陣中において病没しました。

碑のある堤の上の池                           永正寺 鈎の陣跡 

          

永正寺 土塁                                永正寺 本堂