明智左馬之介秀満 湖水渡りの碑

翌14日安土城を守る光秀の娘婿秀満は、
山崎での光秀軍敗退の報を受けて坂本城へ向かいます。

秀満は湖岸沿いに大津まで来て、秀吉の堀秀政軍に行く手を阻まれ、
打出浜から名馬大鹿毛にまたがりひとり湖水に乗り入れます。
敵武者たちがあれよあれよと見つめる中、
秀満は唐崎まで無事湖水を渡り切り、坂本城へたどり着きました。
 
打出浜の琵琶湖文化館の前に「明智左馬之介湖水渡りの碑」、
柳が崎大津館の駐車場には「明智左馬之介光俊駒止めの松と碑」があります。
左馬之介秀満は光秀のいとこともいわれ、別名光春、光俊とも呼ばれます。

天下の名城安土城も築城後僅か5年にして、この時炎上してしまいました。
秀満が安土城を出るとき火を付けたとか、
秀満の後で入城した信長の子信雄が放火したとも、
また、野盗や土民の仕業による出火とも言われ、真相は謎に包まれています。

左馬之介の湖水渡り カメラの位置から写真右先端あたりへ 



左馬之介 駒つなぎの松と碑                    信長館 安土城模擬天守閣