西教寺

光秀は元亀2年(1571)9月、信長の比叡山焼き討ちの後、
坂本城主に任じられます。

戦火で焼けた西教寺の復興につとめるなど、
光秀は早くから西教寺を明智家の菩提寺にすることを考えており、
翌年堅田の本願寺攻めをしたときの戦没者18名の供養もここで行っています。

総門は坂本城の遺構と伝えられ、
馬に乗った武士が走り抜けられるよう門は高く造られています。
入口に明智光秀と一族の菩提寺と刻まれた石碑が建っています。
境内には光秀の墓と妻煕子の墓があります。

その横に、芭蕉が奥の細道で詠んだ
「月さびよ明智が妻の話せむ」の句碑があります。
夫、光秀の遠来の友を迎え、煕子が越前での貧しい生活の中で、
黒髪を切ってもてなしの費用に充てたという煕子の内助の功をしのんだ句です。

寺内には坂本城の陣鐘、光秀の像、それに秀満湖水渡りの鞍等が残されています。

光秀墓                         光秀の妻 煕子墓 

               

煕子を讃える 芭蕉句碑                        西教寺本堂