>

法金剛院と待賢門院璋子  

法金剛院を出て裏山に廻ると、待賢門院璋子を葬る花園西陵があります。

璋子は幼い時から、白河法皇と祇園の女御の養女として育てられました。
法皇の幼女璋子への愛情は深く、法皇の気持ちはやがて大人の恋情へと移って行きます。

璋子は法皇の孫、鳥羽天皇の中宮に迎えられますが、
二人の間に生まれた第1皇子顕仁親王は、
白河法皇の子と噂され、鳥羽天皇から疎んじられます。
一方法皇は顕仁親王が可愛く、その父鳥羽天皇に譲位を迫り、
5歳の皇子は崇徳天皇として即位します。

今度は法皇が崩御されると、崇徳天皇は皇位を降ろされ、
4歳の弟近衛天皇に代わります。
しかし、近衛天皇が若くして崩御されると、
後継をめぐって崇徳上皇、弟雅仁親王の兄弟間で保元の乱が起こりました。
勝利を得た雅仁は後白河天皇となり、崇徳上皇は讃岐へ流されました。

西行法師は璋子への叶わぬ恋から無常を抱き、出家したともいわれています。
双ヶ丘の麓、長泉寺には徒然草を書いた吉田兼好の墓もあります。

花園西陵 待賢門院璋子の御陵                   侍女 待賢門院堀川の歌碑  

                                          「長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝はものをこそ思へ」

          

仁和寺裏山より双ヶ丘を望む                     長泉寺 兼好法師墓