鷹峯 光悦寺

本阿弥光悦は、元和元年(1615)徳川家康から鷹峯の地を与えられ、
一族をはじめ刀、蒔絵、絵画、陶芸などの職人を集め、ここに芸術村を開きました。

光悦や宗達に始まる装飾性に富んだ画風は、尾形光琳や乾山に受け継がれ、
琳派と呼ばれて今年で丁度400年を迎えます。

光悦は屋敷に先祖の位牌堂を造りましたが、
光悦が80歳で亡くなるとそれを光悦寺とし、彼の墓もここにあります。
光悦は刀の鑑定や研磨を家業とし、茶道は古田織部や織田有楽斎に学び、
書道では寛永三筆の一人に数えられる文化人です。

境内には七つの茶室がありますが、全て大正期以降に再建されたもので、
太虚庵は光悦終焉の場所といわれます。
その前には斬新なデザインの光悦垣があります。

庭園は自然の趣を有し、そこから眺める鷹峯三山の姿は、
花札の「月と薄」のデザインのモデルになったといわれます。

 庭園から鷹峯三山を望む                          光悦垣           

          

茶室 太虚庵                               本阿弥光悦墓