、 鷹司邸跡

九条邸を東へ進むと、堺町御門の向こうに大きななスダジイの木があり
鷹司邸跡の木札が立っています。

幕末鷹司政通は30年以上の長きにわたり関白を務め、
最初は開国論に立って幕府を支持しましたが、
若手公卿らの反論にあい攘夷派に変わります。

文久3年(1863)8月18日の政変では
堺町御門を守る長州藩や攘夷派の若手公卿7名が京を追われました。
その後、、勢力挽回を図る長州攘夷派の動きは、池田屋事件、禁門の変へと続きます。

元治元年(1864)7月19日の禁門の変では、
御所の蛤御門と堺町御門の2ヶ所で長州藩との戦いが始まりました。
真木和泉率いる長州勢は鷹司邸に立て籠もり、
朝廷側の九条邸との間で激しく大砲の弾が飛び交いましたが、
長州軍は破れ久坂玄瑞、寺島忠三郎らはここで自刃しました。

撤退する長州勢が放った火は「どんどん焼け」となって京の町に3日3晩燃え続け、
八百余町二万七千軒の家を焼き尽くしました。

 
 堺町御門
内側から見た堺町御門
 
 
 鷹司邸跡 スダジイの木 
 宗像神社のアオバズク