寺田屋騒動

宇治川からの派流に架かる京橋界隈には、幕末のころ三十石舟が出入りし、
寺田屋などの船宿が並び賑わいを見せていました。

文久2年(1862)4月23日、尊王攘夷,急進派の有馬新七ら薩摩志士たちは、
幕府側に立つ関白九条尚忠や所司代酒井忠義らを討とうと寺田屋に集いました。

幕府との公武合体を進める薩摩藩主の父島津久光は、
暴挙をやめさせるべく奈良原喜八郎らを説得に派遣しますが、
彼らはそれに応ぜず同志討ちとなって9名が犠牲となりました。

庭園にはこの寺田屋騒動記念碑と
明治天皇の皇后からの下賜金で建てられた
お登勢と寺田屋の由来を刻んだ恩賜記念碑があります。

当時の寺田屋は今記念碑が建っている史跡庭園の場所にありました。
しかし 鳥羽伏見の戦いで焼け、現在の建物は明治38年ころに再建されたものです。
 
寺田屋騒動記念碑と龍馬の像

恩賜記念碑

   

龍馬の像 
松林院 お登勢の墓(手前)