大黒寺 薩摩義士

大黒寺は薩摩藩邸に近く、島津家の守り本尊と同じ
「出世大黒天」を祀り、薩摩藩の祈禱所として薩摩寺とも呼ばれています。

境内に並ぶ3つの碑は、左が薩摩義士顕彰碑で、中央と右は伏見義民の遺髪塔です。
江戸時代木曽、揖斐、長良の急流三川が氾濫を繰り返し、
幕府から薩摩藩にその対策として治水工事が命じられました。
幕府は濃尾地方の農民を洪水から守るとともに、
薩摩藩の財政弱体化を図る目的もあり、大変な難工事となりました。

総奉行を命じられた家老平田靱負は、
3年間の工期を経て宝暦5年(1755)工事を完成させますが、
当初予算30万両に対し工費は300万両にも及び、その責任を負って自刃しました。
平田靱負とともに工事で亡くなった薩摩義士を顕彰し、碑が建てられています。

伏見天明義民の遺髪塔はは、伏見奉行小堀政方の暴政を
幕府に直訴し、犠牲となったた文珠九助ら7名を祀ります。
寺内には幕末西郷隆盛と大久保利通などが国事を論じたという部屋も残されています。 

 
 
 大黒寺山門

おさすり大黒 
   
 
薩摩義士碑
 
平田靱負墓