仏光院 大石順教尼

勧修寺の境内には、大石順教尼によって昭和22年創設された仏光院があります。
「大石よね」は明治21年大阪道頓堀に生まれ、
15歳で芸者となり、「山海楼」中川万次郎の養女となります。

明治38年6月21日、万次郎は妻が男と駆け落ちしたことから狂乱し、
妻の母親ら5人を刃物で殺し、その場にいた「よね」だけは両腕を失いますが生き残りました

「よね」は両手のない姿を見せ物として巡業の旅に出ます。
ある時カナリヤがくちばしでひなに餌をやり子育てする姿を見て、
口だけでも身を立てることができると気づきます。

画家山口草平と結婚、2児の母となります。
しかし関東大震災後離婚し、昭和8年仏門に入り順教尼となります。
昭和11年勧修寺境内に身障者の福祉施設を創設しました。
昭和30年には書画を学び、口にくわえた筆で書いた作品が日展に入選します。
昭和43年4月この地において、80歳で亡くなりました。

大石順教尼                 境内に展示された順教尼と書          

             

順教尼の掛け軸「夢」                           仏心院境内