角倉了以像

時雨殿の横から亀山公園への坂道を上ると、
周恩来首相の「雨中の嵐山」の歌碑を見てやがて岩の上に角倉了以の大きな銅像が現れます。

角倉了以は天文23年(1554)足利将軍家医師の子として嵯峨に生まれ、
安南国(ベトナム)との朱印船貿易で資産を築いた豪商です。

慶長10年(1605)幕府の許可を得て丹波と京都を結ぶ
大堰川の開削をわずか5か月で完成させます。
今まで陸路で運ばれていた丹波の材木や物資は全て水運に代わり、
角倉家への通行料を払っても経済効果は大きく地元の発展に寄与しました。

続いて慶長16年から19年にかけては秀頼の大仏殿再建に伴い
高瀬川が開削され、京都と伏見が水運で結ばれました。

川向うの大悲閣千光寺は、これらの工事で亡くなった人々の菩提を弔うために建てられ、
了以も晩年ここを隠棲の地としました。

了以は慶長19年高瀬川の完成を見届け61歳で亡くなり、
二尊院の角倉家墓地に葬られています。


 角倉了以銅像                               大堰川
     

             

高瀬川と高瀬舟                            大悲閣 千光寺入口