西本願寺屯所 太鼓楼

新選組の隊士も200名を超え、壬生の屯所では狭くなり、
慶応元年(1865)3月10日約2年間過ごした壬生から、屯所を西本願寺の北集会堂と太鼓楼に移します。

西本願寺は長州とのつながりも深く、禁門の変では敗走してきた長州兵をかくまったこともあり、
新選組としては西本願寺の勤王への動きを封じる意味もありました。

境内では隊士たちが練習する空砲の響や、隊士の切腹、首切りの悲鳴も聞かれ、
また一方では鳥や豚を飼って屠殺、肉食をするなど仏法の場らしからぬ風景と化しました。

慶応3年3月、参謀の伊東甲子太郎は勤王の志強く、
孝明天皇の御陵を守る「御陵衛士」となって新選組を離れ、、東山月真院へ同志とともに移りました。

西本願寺と壬生の間にある島原の角屋や輪違屋などは、
新選組隊士の憩いの場所としてよく登場します。

西本願寺での滞在も2年余りで、慶応3年6月15日屯所は不動堂村へ移りました。

西本願寺御影堂                               西本願寺外堀     

           

島原 大門                                       角屋