不動堂村屯所跡

新選組の相次ぐ無謀な行為に西本願寺は移転を求めて、
七條油の小路下る不動堂村の土地約1万平方メートルを提供し、
表門、高塀、玄関、長屋、客間、幹部や隊士の部屋、30人の入れる大浴場など大名屋敷並みの施設を建てました。
不動堂村の名前のもととなった不動堂明王院が残されています。

リーガロイヤルホテルの前に不動堂村屯所址の説明板があり、
近藤勇の「事あらば我も都の村人となりてやすめん皇御心」と詠んだ歌碑もあります。

慶長3年11月18日夜、西本願寺の近くにある近藤勇の妾宅へ招かれた伊東甲子太郎は、
その帰宅途中油小路の本光寺前で新選組隊士の手で殺されました。

この年の10月14日将軍慶喜は二条城で大政奉還を行い、
12月9日小御所会議において王政復古が発せられました。

ここにおいて慶喜は大阪城へ退き、京都守護職や所司代も廃止され、
12月14日新選組もわずか6ヶ月でこの地を追われ伏見奉行所跡へと移っていきました。

ハトヤ瑞宝閣の前にも屯所址の碑があり、正確な屯所の範囲は不明です

   

リーガロイヤル前 近藤勇歌碑碑                 不動堂村屯所址碑  ハトヤ瑞宝閣
               
                    

本光寺  伊東甲子太郎終焉の地                    二条城  大政奉還