伏見奉行所跡

慶長3年12月16日伏見鎮撫として伏見奉行所へ入った新選組隊士は66名、
会津兵士の応援を得て150名ばかりの布陣となりました。

12月18日二条城での軍議に参加した近藤勇は、伏見への帰途墨染で伊東甲子太郎一派の御陵衛士に襲われ、
右肩に弾丸を受け負傷し何とか奉行所へたどり着きました。

写真の赤い鳥居が建つ大手筋通りから左手奥の森が御香宮です。
右手方向に伏見奉行所がありました。今桃陵団地の入り口に奉行所跡の碑が建っています。

慶応4年1月3日夕刻、鳥羽の小枝橋付近で幕府軍と薩長の軍が激突し、
戊辰戦争の火ぶたが切られました。
新選組も負傷した近藤に代わり土方歳三が指揮を執り、
大手筋を挟んで御香宮に陣どる薩摩藩に立ち向かいます。
しかし官軍の錦の御旗と薩摩の近代兵器のまえに敢え無く敗退し大坂へと退きました。

新選組の伏見での滞在はわずか半月、京都での歴史も5年足らずの活躍でした。

伏見奉行所跡碑                      御香宮 伏見の戦い跡碑

               

小枝橋 戊辰戦争勃発の地                        墨染 近藤勇遭難の碑