阿弥陀ヶ峰 豊国廟

天下人太閤秀吉は、慶長3年(1598)8月18日、
伏見城においてまだ6歳の幼い秀頼に、豊臣家の将来を案じつつ63歳で亡くなりました。

その時、慶長の役で朝鮮出兵中の日本軍の撤退が終わるまで、秀吉の死は伏せておくことと、
自分は八幡大菩薩の神として祀られるように、土葬として埋葬することを遺言しました。

9月6日には前田玄以によって、神社の建設は始まりますが、
これは大仏殿方広寺の鎮守であるとして、秀吉の死は公表されていません。
遺体は阿弥陀が峰の中腹、油が峰に祀られました。
そして豊太閤300年祭の行われた明治31年、豊国廟は現在の阿弥陀が峰に移されました。

慶長4年4月18日ふもとの太閤坦には、壮麗な八棟造りの豊国社社殿が完成し、
秀吉を正一位豊国大明神として正遷宮が行われました。

しかし、徳川の世となると社殿は取り壊され、
現在太閤坦には豊国廟の拝殿と秀吉の愛妾松の丸、
それに秀頼の子国松の供養塔がわびしく残されているだけです。

旧豊国神社跡 太閤坦                         豊国廟参道          

          

参道489段の石段                   松の丸墓と 左奥 国松の墓