方広寺大仏殿跡

関白として天下を掌握した秀吉は、
天正16年(1588)その勢力を示威するため大仏の建立にかかります。

途中で金銅仏から漆膠仏に計画を変更し、
文禄4年(1595)ほぼ大仏殿は完成しますが、翌文禄5年の大地震において大仏は崩壊しました。
木造大仏座像の高さは18m、大仏殿の高さは50m、南北90m、東西55mという巨大な建物でした。 
伽藍は西向きに建てられ、その規模は南北約260m、東西約210mと推定されています。

秀吉の没後、秀頼が再建にあたり慶長19年(1614)3代目大仏殿が完成しますが、
その時梵鐘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字をめぐり方広寺鍾銘事件が起こります。
それが発端となり、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しました。
梵鐘には淀殿恨みの幽霊が出るといわれます。

天保14年(1843)に造られた木造の5代目大仏は、昭和48年の火災で焼失しました。
方広寺を囲む石垣は秀吉が全国21大名から集めたもので、
蒲生氏郷が三井寺から運んだ18畳敷きの大きさがある「蒲生石」や、
加賀前田家が石の重さと運搬の費用に泣かされたという「泣き石」などがあります。

大仏殿復元礎石                              方広寺梵鐘          

             

 泣き石                        手前 「泣き石」    右 「蒲生石」