郭巨山

中国二十四孝の一人郭巨に由来します。
郭巨は貧しい生活の中で母親と三歳の子を育てていました。
しかし、充分な食事の与えられぬ孫の姿を見て、郭巨の母は自分の食事を割いて孫に与えます。
その姿を見た郭巨は子は再び得られても、
親は二度と得られずと、我子を土中に埋めることを決意します。
穴を掘っていると金の釜が出てきて、再び幸せな生活を送ることができました。

御神体は鍬を持つ郭巨と牡丹を持つ童子の姿です
粽には金運と開運のご利益があります。

膏薬辻子には神田明神が祀られています。
平安時代天慶の乱で藤原秀郷は平将門を討ち取り、京へ凱旋し将門の首をこの辻子にさらしました。
将門の首は関東に残された自分の胴体を求めて江戸へ飛び去り、
今の東京神田明神へ 祀られたと伝えられます。
しかし、この辻子にはその元となった神田明神の本家が祀られています。
空也上人は平将門の供養堂をこの地に建て、
「くうやくようどう」がなまって「こうやくのずし」になったといわれます。

 

 上村松篁下絵 万葉美人緋桃と菫図     金運開運の粽  
   
             
 
  神田明神      膏薬の辻子