黒金門址

黒金門址から内は本丸、二の丸、天主と安土城の中枢部に入り、
信長と側近たちの日常住まいの場所です。

「本能寺の変」の後主要な建物は焼失し、黒金門も今はありませんが
周囲からは桐紋や菊紋の金箔瓦が発掘されています。
残された石垣からもその壮大な姿がしのばれます。

石垣は坂本の穴太衆によって築かれており、
これ以降全国の城に穴太衆の石垣が用いられるようになりました。

黒金門址までの道には、「本能寺の変」で信長とともに討たれた嫡男信忠の屋敷址や
織田信澄、森蘭丸の屋敷址の碑も見られます。
信澄は信長の甥ですが、光秀の娘を嫁としたため、
光秀の「本能寺の変」後大坂城で信長の三男信孝に殺されています。
信長の次男信雄家四代の墓もあります。

またこの辺りで百々橋口へ下る道と出会いますが、
その先には信長が自らの菩提寺として建てた摠見寺本堂址があります。
安土城当時の建物として、ここには三重塔、二王門の二棟が残されています。

  伝織田信忠邸址  織田信雄家4代墓
             
 摠見寺本堂址               摠見寺 二王門(三重塔は事中でした)