龍馬とお龍「愛の旅路」

十石船は酒蔵を離れると、今度は寺田屋の前にやってきます。  
寺田屋は薩摩藩の定宿として知られ、
幕末には公武合体でまとめようとする薩摩藩主の父島津久光の派遣した奈良原らの説得をも聞かず、
尊王攘夷を進める有馬新七ら急進派との間で寺田屋事件と呼ばれる同士討ちがありました。

また、薩長同盟をまとめた坂本龍馬はここで幕府の捕手に襲われ、
お龍の機転で危機を脱しました。
そのあと二人はその時の傷の治療を兼ねて薩摩へ向かい、これが日本で最初の新婚旅行として、
寺田屋の浜の向かいに竜馬とお龍「愛の旅路」の像が見えてきます。
まもなく京橋をくぐるとまさに桜のトンネルといった風情です。

そして北からの豪川と宇治川派流が合流するところに「角倉了以水利紀功碑」があります。
慶長16年(1621)から3年かけて角倉了以、素庵父子がここから京都の二条まで高瀬川運河を開きました。
大正9年まで高瀬舟が物資を運び、ここは水運の動脈でした。

(第103回「伏見薩摩藩ゆかりの史跡」もご参照ください)

 寺田屋         角倉了以水利紀功碑 
             
 高瀬川       公園の十石船