西教寺 光秀一族の墓

西教寺境内には光秀一族の墓と光秀の辞世を刻んだ歌碑があります。
坂本城の城主となった光秀は、比叡山の焼き討ちで焼失した本堂などの復興に尽くします。
西教寺は真盛上人からの不断念仏道場として知られ、
その声明の音に心を癒された光秀はここを明智家の菩提寺としました。

辞世には我が55年の人生を振り返って「五十五年夢 覚来帰一元」と結ばれています。
光秀の妻煕子の墓もあります。
明智軍記などには煕子は天正10年(1582)坂本城落城のとき、子供や一族とともに自刃したとありますが、
西教寺ではその6年前の天正4年に病気で亡くなったとの過去帳があります。
芭蕉は奥の細道で越前を訪ね、煕子のほほえましい話を聞いて俳句を残しています。

煕子の父妻木広忠は、坂本落城時は城内におりましたが、その後光秀一族等の菩提をこの寺で弔い、
落城4日後の9月18日煕子の墓の前で一族の後を追って自刃しました。

 光秀の辞世  光秀妻 煕子の墓
        
 芭蕉の句碑  月さびよ明智が妻の咄せむ  
煕子の父 妻木広忠の供養塔