坂本城跡公園

元亀2年(1571)9月12日、信長の比叡山焼き討ちによって三塔十六谷の堂舎は焼き払われ、
死者3~4千人に及んだとあります。

この時光秀は積極的な働きをして戦後信長から志賀5万石を与えられ、坂本城の築城を許されます。
光秀が信長に仕えて僅か3年、先輩諸将を抜いて信長臣下で初めての城持ち大名となりました。

築城に優れた才能を持つ光秀は、湖岸に大天守、小天守を備えた華麗な水城を築き、
船は城から直接出入りして安土城や長浜城と結び、
宣教師ルイスフロイスは安土城に次ぐ天下の名城と記しています。

しかし、天正10年6月14日山崎の合戦で敗れた光秀は、小栗栖の藪で殺され、
安土城から駆けつけた明智左馬之助光春らも、もはやこれまでと、
光秀の子息、光春の妻ともども城に火を放って一同自刃しました。

今は当時の城をしのぶ遺跡はほとんどなく、
平成6・7年の琵琶湖大渇水期に湖の中から石垣が現れたことがありました。

史実には基づいたものではありませんが、幻の坂本城合成写真から城の面影をしのんでください。

城郭址の湖畔 水中に石垣が残る
 
左の湖面に写真合成した幻の坂本城      
(下阪本湖都通信から借用)   
         

 坂本城本丸跡
 
東南寺前 坂本城址の碑