晴明神社 利休居士屋敷址

堀川通り今出川を下がったところに安倍晴明を祀る晴明神社があります。
晴明神社の前に武者小路千家家元千宗守奉納の
「千利休居士聚楽屋敷址」の碑があります。
この辺りは秀吉の聚楽第にも近く、利休はここに屋敷を構え、
境内にある晴明水は利休もお茶に用いたといいます。

天正19年(1591)堺に一旦追放された利休は、再び京へ呼び戻され
2月28日この屋敷で切腹し、70歳の生涯を終えました。
利休の首は金毛閣におかれていた己の雪駄履きの像に踏みつけられた姿で
すぐ近くの戻り橋にさらされました。

かっては秀吉の茶頭として利休への信頼は厚く、
秀長をして大友宗麟に「公儀のことは私に、内々のことは宗易(利休)に相談するよう」と語っています。
それにもかかわらず利休が処刑された要因については、
金毛閣事件の他に、利休の娘を秀吉が妾に欲しいといったのを断ったとか、
秀吉の朝鮮出兵に反対したためとか諸説あります。

その後、利休の聚楽屋敷は秀吉によって壊され、
その一部は細川家の菩提寺高桐院の書院として移されました。

千利休居士聚楽屋敷址の碑   晴明水 
           
境内にある 旧戻り橋遺構と式神石像  現在の一条戻り橋