宇佐山城

元亀元年(1570)4月将軍義昭の上洛命令に従わぬ朝倉義景の征伐に、信長は越前へ出兵しますが、
妹婿浅井長政の裏切りに遭って辛うじて三河へ逃げ帰りました。

6月信長は姉川の合戦で浅井氏を攻めて再起を図り、そのまま三好三人衆攻撃のため摂津へ向かいました。
9月浅井、朝倉連合軍3万の兵が湖西を南下し、信長の志賀宇佐山城を襲います。

宇佐山城を守るのは森可成(よしなり)と僅か6百の兵で、
森可成は坂本まで迎え撃って華々しく戦いますが討ち死にしました。
可成は森蘭丸の父で墓は坂本の聖衆来迎寺にあります。

急を聞いて信長は摂津から折り返し三井寺に陣を構え、浅井、朝倉連合軍を壷笠山に封じ込めました。
しかし戦は膠着状態のまま12月冬場を迎え、
将軍義昭の斡旋で勅命を受けて講和が結ばれ、両軍は志賀を引き揚げます。
その後宇佐山城の留守を預かったのが明智光秀です。

宇佐山は近江神宮のすぐ裏にある標高336mの小高い山で、下から見ると放送局の中継塔が城跡の目印です。
中腹には宇佐八幡宮があり、城跡には今も石垣が残されています。

宇佐山城 頂上に放送局中継塔が見える   宇佐山城跡への登り道
            
宇佐八幡宮  聖衆来迎寺  森可成墓