坂本城

比叡山の焼き討ち後に、光秀は信長から比叡山の監視と滋賀郡支配のため
志賀5万石を与えられて坂本に城を築きました。

光秀は信長から比叡山焼き討ちを命じられて、仏教を守る立場から強く反対したように伝えられてきましたが、
最近は焼き討ちの10日前に雄琴の郷士和田秀純に宛てた光秀の書状から、
元浅井、朝倉傘下にあった地元豪族たちを信長方に誘い込み、
光秀も焼き討ちを積極的に先導していたものと裏付けられました。

天正元年(1573)末頃湖岸に完成した坂本城は大天主、小天主が並び、
石垣と瓦屋根も当時の城建築としては先駆をなす豪壮華麗なものでした。

文化人としても知られる光秀は、
堺の茶人津田宗久などを招いて茶会も度々開いています。

しかし坂本城は山崎の合戦後焼失し、丹羽長秀によって再建されましたが、
天正14年(1586)頃廃城となり城は大津へ移されました。

坂本城は僅か14年あまりの歴史で、今は坂本城址公園に立つ光秀の像に昔をしのぶばかりです。

 光秀像  坂本城址公園
           
 
         正面建物の辺り本丸跡     

  湖中に坂本城石垣が残る