堅田

堅田の町は琵琶湖大橋の西詰、琵琶湖の最もくびれたところにあり、
中世以来湖上交通の要衝の地として知られています。

志賀の陣では堅田の殿原衆である居初、馬場、猪飼氏が織田方に味方し、
元亀元年(1570)11月織田軍の堅田出城に、信長の命を受けた坂井政尚が1千の兵を率いて救援に入ります。
しかし浅井、朝倉2万の兵が出城を取り囲み、果敢に戦った坂井政尚も討ち死にし織田軍は大敗を喫しました。
出城の跡は写真の左石垣の上、後の堅田藩陣屋の辺りといわれますがはっきりしていません。

元亀4年(1573)将軍義昭と信長が決裂、
2月堅田城には義昭を支援する土豪磯谷久次ら3千余騎が入り、
織田勢は湖水から光秀が囲船(軍船)で、陸からは丹羽長秀、蜂谷頼隆らが攻め込み織田軍が城を陥れました。
この後7月には義昭は宇治槙島城で信長に敗、れ京を追われることになります。

この堅田城は出城とは別に、出島(でけじま)灯台の近く杢兵衛造船所辺りにありました。
出島灯台は明治8年に木造で建てられ、今も琵琶湖唯一の灯台として夜には灯がともされています。

 堅田陣屋跡 推定堅田出城跡  出島灯台
          
  
堅田城跡 杢兵衛造船所

今に残る 居初邸