勝龍寺城

光秀ゆかりの丹波路を訪ねる前に、長岡京の勝龍寺城址を訪ねました。
勝龍寺城は南北朝のころ、北朝方の細川頼春によって築かれたと伝えられます。

永禄11年(1568)信長が将軍義昭を伴い上洛した時、
勝龍寺城にいた三好三人衆の一人岩成友道を阿波へ追放し、
細川藤孝に勝龍寺城は与えられました。

天正6年(1578)藤孝の息子忠興は光秀の娘お玉を嫁に迎え、ここで幸せな新婚生活を送っています。
天正9年細川藤孝父子は丹後宮津城へ移りました。

天正10年6月2日本能寺の変で、光秀によって信長が倒されると、
6月13日備中高松から急遽攻め上ってきた秀吉の軍勢を、光秀軍はここ山崎で迎え撃ちます。

そのときの光秀方の城となったのが勝龍寺城と旧淀城です。
しかし光秀軍は短時間の戦いで敗退、
その夜光秀は秘かに僅かな人数で勝龍寺城を出て、近江坂本城へ向かいましたが、
伏見小栗栖の藪で落ち武者狩りの竹槍に刺されて、無念の最期を遂げました。


 
 細川忠興とお玉の像  
  
勝龍寺城濠 
           

 復元建物 資料館 
          

 光秀の本陣跡 恵解山古墳