亀山城(亀岡城)

長岡から京都縦貫自動車道で老ノ坂を越えるとすぐに亀岡です。
この地はもと亀山であり、お城も亀山城と呼ばれていたが、
明治3年伊勢の亀山との混同を避けて亀岡と改正されました。

天正3年(1575)信長から丹波平定を命じられ光秀は、天正5年その拠点として亀山城を築きました。
当初は3層の天主閣でしたが、後に城主となった小早川秀秋が5層に改装しました。

天正10年秀吉の中国攻めへの援軍を命じられた光秀は、
5月26日亀山城へ戻り、27日には愛宕山へ参詣し、
神前で2度、3度とくじを引きなおし信長攻めへの迷いが見られたといいます。

翌日の連歌会では「ときは今あめが下知る五月かな」と光秀が発句を詠み、
この時には決意は固まっていたと思われます。
6月1日の夜光秀軍勢は本能寺へ向かいました。

明治10年亀山城は廃城となり天守閣も解体されました。
その後宗教法人大本教の所有に代わり、復元された石垣や内堀の跡、家紋石などが公開されています。


 本丸への石段  亀山城模型
           
 
城内
   
  寄進した大名の家紋が残る「家紋石」