福知山城 

信長に命じられた天正3年(1575)からの丹波攻略は、
天正7年8月横山城を落し、9月には赤井氏の黒井城を征服、
10月には光秀は安土城に入り丹波、丹後平定完了を信長に報告をしています。

信長は光秀の功績をたたえ志賀5万石に丹波29万石を加え34万石の太守とし、
光秀は占領した横山城を改築しこの城を福智山城と名づけました。
最初福知山の「知」は、明智の「智」を用いています。

光秀が福智山城主として統治したのは山崎合戦の死までの3年間で、
実務は城代の娘婿明智秀満に任されました。
しかし光秀はこの間坂本、亀岡、福智山を往来しながらも、
由良川に明智藪として今も残る藪を築いて城下を水害から守り、
また城下町の建設、地子の免除など多くの善政を行っています。
領民からも名君として慕われた光秀は、城下の御霊神社に神として祀られています。

城の石垣には坂本城と同じ「野面積み」といわれる自然石が積まれており、
また五輪塔や石仏、灯篭なども転用石として多量に利用されていると甲冑姿の案内人の説明がありました。


   野面積(のづらづみ)の石垣  甲冑姿の案内人
 
   石垣 転用石
          
天守閣からの展望 正面明智藪 
 古城の名残 銅門番所