壬申の乱と瀬田の唐橋

天智天皇の寵愛を受けた大友皇子は文武両道に優れていましたが、
母が王族でない采女で身分が卑しく、大海人皇子が即位を認めなかったのもその点にありました。

672年5月大友皇子は天智天皇の山陵を築くという名目で、
尾張、美濃の農民を集め武器を持たせているという報告が吉野へ入ります。
また宇治橋に守衛人を置いて吉野への食糧運送を阻止するなど、
吉野への攻撃準備が進められているとの情報に、大海人皇子も近江攻撃を決意しました。

壬申の年672年6月24日吉野を出た大海人皇子一行は美濃国に本営を置きました。
そして第1軍は伊賀、伊勢を経て大和へ、第2軍は不破の関から近江の大津京へ向かいます。

7月22日瀬田川を挟んで近江朝廷軍と対峙しますが、
勢いに勝る大海人軍の前に大友軍はもろくも敗退し、
翌日大友皇子は山前で首をくくって最期を遂げました。

大海人皇子は即位して天武天皇となり、大津京はわずか5年余りで廃都されました。

大友軍終焉の地石山、瀬田には御霊神社が北大路、鳥居川、大江の3か所にあり、
いずれも弘文天皇(大友皇子)を祭神としています。

 瀬田の唐橋  北大路 御霊神社
             
 
 鳥居川 御霊神社

 大江 御霊神社