茶臼山古墳

大友皇子は山前(やまざき)で自害したと記録されていますがその場所は特定されておらず、
終焉の地として伝承されている場所が今も4か所あります。

その一つが秋葉台丘陵にある茶臼山古墳の葬り塚です。
皇子はここまで逃れ来て最期を遂げ、茶臼山山頂にある秋葉神社の奥に葬り塚として、
大友皇子の子息とともに祀られています。

そのほか先ほどの鳥居川の御霊神社も終焉の地と伝承されます。

堅田の鞍掛神社にも大友皇子が最期を遂げた地として弘文天皇が祀られています。

堅田の伝承には近江軍が吉野追撃を計画していたとき、大海人皇子の娘で大友皇子の妃となっていた十市皇女が、
そのことを手紙に書いて鮒の包み焼の腹へ入れ吉野の父に伝えたという伝承があります。

膳所の西の庄には石坐神社(いわい)と法伝寺があります。
石坐神社には天智・弘文天皇それに弘文の母伊賀采女宅子媛命(いがのうねめやかこ)と彦坐王命が祀られており、
その近くの法伝寺は天智・弘文両天皇の氏寺として寺内に両天皇の尊牌が祀られ、今もご住職は大友氏だそうです。
 



茶臼山古墳 葬り塚

堅田  鞍掛神社 
           

石坐神社
 
法伝寺