弘文天皇 長等山前陵
大友皇子は父天智天皇が亡くなり、自分が壬申の乱に敗れ自害するまで7ヶ月足らず、
その間に本当に皇位継承をしたのでしょうか。
「日本書紀」には大友皇子の即位は記されておらず、明治3年に江戸時代に書かれた「大日本史」に基づき
大友皇子は弘文天皇として追諡され、初めて歴代天皇に加えられました。
日本書紀は天武天皇の流れをくむ元正天皇のときに完成しており、
大海人皇子は弘文天皇に対するクーデターではなく、大友皇子を相手にしたとして壬申の乱を正当化したものと思われます。
明治3年に弘文天皇陵を先にあげた3か所の大友皇子終焉の地と合わせて検討され、
ここが最も有力な終焉の地として長等山前陵に決定しました。
この辺り皇子山公園は昔大友皇子が鷹狩りを楽しんだ地で、皇子山1号古墳にも大友皇子の墓としての伝承があります。
大津京シンボル緑地の額田王(ぬかだおおきみ)の歌碑は、
彼女が天智天皇をしのんで詠ったものとされますが、もとは大海人皇子の妻であった額田王が天智天皇の妃となり、
二人の額田王を巡る恋が、壬申の乱の原因になったともいわれます。
皇子山1号古墳 |
皇子山古墳から見た大津京跡 |
大津京跡 錦織遺跡 |
額田王歌碑 大津京シンボル緑地 君待つとわが恋をればわが宿の すだれ動かし秋風の吹く |