乙訓寺

霧島つつじの長岡天満宮から北へ約1km、
この 季節は乙訓寺では牡丹の花が見ごろです。

乙訓寺の歴史は古く、7世紀の頃聖徳太子によって創建され、
長岡京七大寺の筆頭寺院でもありました。

嵯峨天皇は乙訓寺を鎮護国家の道場として、空海をここの別当に任命しました。
最澄は真言の法を求めて乙訓寺に空海を訪ねており、
二人が初めて出会った場所でもあります。

長岡宮造営の責任者藤原種継暗殺事件に連座したとして捕らえられた早良親王は、
この寺に一時幽閉され、その後淡路へ流される途中無実を訴えて10日余り絶食し、
河内で無念の最期を遂げています。 
 
この寺は真言宗に属し牡丹で有名な 大和長谷寺を本山とします。 
昭和9年の室戸台風で境内が荒れ果てたあと、
昭和15年頃本山より牡丹二株が献木されました。
それから約80年、歴代住職の情熱によって今や牡丹は2000株に増え、
花の寺ともいわれるまでになりました。

境内には長岡京市の天然記念物に指定されている樹齢400~500年のモチノキもあります。

 乙訓寺表門  乙訓寺の牡丹
               
  
境内

 樹齢500年のもちの木