安養寺 法然吉水草庵跡

1201年法然のもとに弟子入りした範宴は綽空(しゃっくう)と名を改め、
南無阿弥陀仏を唱えれば誰でも極楽往生が遂げられるという専修念仏を学びます。

吉水草庵は円山公園の奥の現在の安養寺と吉水弁財天の辺りで、
法然親鸞両上人御旧跡の碑があります。

また人間は煩悩のままに生きるという法然の教えの元で、
肉食妻帯も許された綽空は九条兼実の娘玉日姫と結婚しました。

専修念仏の教えは多くの人々の信仰を集め、南都北嶺の旧仏教集団からの強い反発を受け、
そのようなときに「建永の法難」が起こりました。
1206年後鳥羽上皇の寵愛していた女房松虫、鈴虫が上皇の熊野詣の留守に、
住蓮、安楽の若き僧のもとで出家するという事件があり、
激怒した上皇は住蓮、安楽ら4名を死罪、松虫、鈴虫を瀬戸内の生口島に流罪にします。

二人の僧の師である法然は讃岐へ、親鸞も越後へ流罪となりました。

僧籍をはく奪された35歳の綽空は、
「非僧非俗」の身を愚禿親鸞(ぐとくしんらん)と名乗り越後へ向かいました。

吉水弁財天 
知恩院  法然上人御廟
           

 住蓮坊 安楽坊墓
 松虫 鈴虫墓