見真大師(親鸞)遷化の旧跡

玉日姫は父兼実の老後を看取るため京に残り、
越後出身の侍女恵信尼を親鸞の正室として同行させました。

1211年法然、親鸞の流罪は赦免となりましたが、翌年法然は京へ帰り80歳で入滅され、
親鸞は京へ戻る必要もなくなり、恵信尼ら家族ともども関東への布教の旅に出ました。

関東での布教活動20年余りを経て、63歳のころ恵信尼を越後に残し、末娘覚信尼と京へ帰ってきました。
京では積極的な布教活動もせず、関東の信徒と連絡を取りながら、教行信書を書き上げました。

1262年親鸞は柳馬場御池上るの弟尋有(じんう)の寺善法院で、90歳をもって入滅されました。
遺言には「遺骸は鴨川に捨て魚に与えるべし、私は浄土へ行くのだから遺体には意味がない」とありましたが、
覚信尼は親鸞の遺体を火葬にして鳥辺野に葬りました。

さらにその10年後、覚信尼は関東の門弟たちの支援を受けて、
現在の知恩院山門の北にある崇泰院の地に六角堂を建てて、親鸞の遺骨を移し墓所「大谷廟堂」としました。
これが後に親鸞のひ孫覚如によって寺院化され本願寺となります。

  鴨川
 西大谷本廟
            

 崇泰院 大谷本願寺故地
 西本願寺