近江八幡城址 瑞龍寺

1568年秀次は秀吉の姉瑞竜院日秀と
三好吉房の長男として尾張に生まれました。

子供のない秀吉に引き立てられて各地を転戦し、
1584年小牧・長久手の戦いでは大敗を喫し秀吉から叱責を受けていますが、
翌年には紀州雑賀征伐、四国征伐に副将となって活躍し、
羽柴姓を許されて秀次と名乗り近江大和43万石の近江八幡山城主となりました。

本能寺の変の後炎上した安土城に代わって、秀次によって築かれた八幡の城下町は、
碁盤の目状に整備され、安土の町から商人を移し、
楽市楽座を施行して自由商業都市の繁栄をもたらしました。

その後も秀次は小田原征伐に続く奥州征伐では総大将を勤め、
尾張、伊勢を加増されて100万石の大名となって、清州に城を移しました。

八幡山城は秀次の後、京極高次が継ぎましたがやがて廃城となり、
今城跡には日秀が秀次の菩提を弔うために京都に建てた瑞龍寺が、昭和36年ここに移されています。


 瑞龍寺 秀次公銅像の原型 
               
 八幡城址から安土城方面を望む  
八幡堀