聚楽第

天下を治め関白となった秀吉は、1596年御所の近くに聚楽第を設けました。
聚楽第は天皇の権威に結びつく公儀の城であり、「長生不老の楽を聚(あつむ)」から名付けられ、
一条、大宮、出水、浄福寺通りに囲まれて約700m四方ありました。
翌年には後陽成天皇も聚楽第に行幸されています。

今は秀吉がお茶を楽しんだ「菊の井」の井戸跡、
それに堀の土手跡をしのばせる松林寺門からの傾斜が残るばかりで、
秀吉の後を次いで城主となった秀次が切腹を命じられると城はことごとく破壊され、
今に残る当時の建物とされるのは大徳寺の唐門と西本願寺の飛雲閣ですが、
それも確証はありません。
聚楽第が存在したのはわずかに8年ばかりでした。

1591年1月秀吉を支えてきた弟大納言秀長が病死し、
8月には嫡男として秀吉が将来を託そうとしていた鶴松が3歳で病死しするという不幸が続きました。
秀吉は、甥の秀次を養子に迎えて関白職と聚楽第を譲り、自分は太閤となって伏見に伏見城を造りました。


松林寺 堀跡
   
 菊の井の跡
           
 西本願寺 飛雲閣
 大徳寺 唐門