秀次の最後

秀次に全てを譲った秀吉でしたが、1593年秀吉57歳のとき、淀君に男の子捨(秀頼)が誕生しました。
 
秀吉としてはやはり秀次に関白を譲ったことを後悔し、
秀次には日本の国を五つに分けてその4つを秀次、1つを秀頼に分けること。
その他秀次の娘を秀頼に嫁がせることなどの条件を秀次に提示します

秀次としてはどうしても面白くなく、自暴自棄な行動が目立つようになり、
正親町上皇の喪中に鶴を食したとか、北野で罪のない町人を辻斬りしたとか、
女人禁制の比叡山へ女房たちを連れて登り遊宴したとかの悪いうわさが流れ
殺生関白とまであだ名されました。

ついには太閤暗殺の謀反まで企てているとの情報に、
1595年7月8日秀吉は秀次を伏見城へ呼び出し、そのまま謁見もせず秀次を高野山へ追放しました。
7月15日高野山青岸渡寺で死を命じられて、秀次28歳でもって写真の部屋で自刃しました。

最後に秀次は「わしの人生は太閤によってつくられ、太閤によって閉ざされた。
しかし、これから腹を切るのは自分の意志である」という言葉を残しています。

 高野山 金剛峯寺(青岸渡寺)      高野山豊臣家墓地
                  
 伏見城 模擬大手門   伏見桃山 秀次屋敷跡
            2015年発掘調査中