瑞泉寺 秀次の墓

8月2日秀次の妻妾子供ら39名が鴨川の三条河原で処刑されました。
河原には40m四方の堀が掘られその中に柵を施して、
そばの塚の上には秀次の首が据えられていました。
先ず幼い若君4名姫1名が母親に先立って首を切られ、
続いて34名の妻妾が多くの見物衆の前で斬られていきます。

哀れを極めたのは最上義光の娘駒姫で、山形から秀次に召されて京へ出てきて、
秀次とはすれ違いとなり出会うこともできなかったのに、妻妾として捕らえられました。
義光の懇願でようやく秀吉の許しを得、伏見城からの救いの使者が
刑場へ到着する寸前に刑は執行されてしまいました。

これらの遺体は秀次の首もろとも河原に埋められ「秀次悪逆塚」と刻まれた石碑が建てられました。
1611年角倉了以が高瀬川を築いたとき、この石塔が発掘され、
悪逆の文字を削って菩提のため了以がその場所に建てたのが瑞泉寺で、
そこには秀次らの墓があります。
今ののどかな三条河原からはそのような歴史はとても想像できません。

 瑞泉寺 表門  三条河原 
                       
 鴨川の流れ  高瀬川