西行と鳥羽離宮

西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)といい、佐藤康清の嫡男として
元永元年(1118)に生まれました。
生誕地は父の知行地である紀州とも、常駐の地であった京都ともいわれています。 

義清は18歳で左兵衛尉となり、鳥羽院の警護に当たる北面の武士として仕え、
この時同僚には平清盛もいるといった華やかな人生のスタートでした。
23歳のときには鳥羽法皇に命じられ、一夜のうちに10首の歌を詠んで
御所の障子に書きつけ、褒美に太刀を下賜されています。 

しかし23歳のとき義清は妻子と別れ突然出家し、西行を名乗ります。
別れを悲しんで衣の裾にしがみつく4歳の娘を縁側から蹴落として、家を出たという逸話が残されています。

出家の要因としては、親しい友人の死や高貴な上臈との失恋などが噂され、
その女性の名も待賢門院、美福門院、上西門院など諸説あります。

鳥羽離宮跡にある白河天皇陵の少し北、小さな地蔵堂の横に西行寺跡の碑があります。
ここが西行邸の跡で、江戸時代にはこの地に西行寺が建てられていました。

西行邸跡 
 鳥羽離宮跡
             

鳥羽天皇陵
 
      鳥羽離宮の鎮守 城南宮