二尊院 西行屋敷跡

西行の出家後は嵯峨や鞍馬の奥にこもり聖としての生活に入りました。
嵯峨二尊院の山門を入ると参道のすぐ左手に西行屋敷跡の碑があり、
二尊院の向い去来の墓のある弘源寺墓苑には西行の歌碑と西行が用いたという井戸が残されています。

一方では西行は吉野、熊野で僧としての修行を重ね、そして2度にわたる陸奥紀行、
さらに高野山、伊勢、保元の乱で讃岐に流されて崩御した崇徳院の後を慕って讃岐の白峰陵までも訪れ、
その生涯を旅に過ごしています。 鎌倉では源頼朝にも出会っています。

西行の和歌は今も約2300首が残されており、新古今集には94首と最も多く選ばれ、
院政期における藤原定家とともに歌壇の第一人者でありました。

百人一首には「嘆けとて月やはものを思わするかこち顔なる我が涙かな」と詠んでいます。
嘆けと言って月は私を物思いにふけらせるのでしょうか、いや月のせいにしたくなりますが私の悩みからでる涙なのです。

 西行法師屋敷跡
 西行の歌碑 
          
 
西行の井戸
 嵐山と大堰川