西行庵

円山公園の少し南にある双林寺の飛び地境内に西行庵があります。
西行は双林寺の塔頭蔡華園院(さいけおういん)に草庵を結び、東山の風情を楽しんでいます。

西行の歌に「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月のころ」があります。
陰暦如月の15日は釈迦入滅の日でもあり、西行の願いに1日の違いはありましたが
桜満開の文治6年(1140)2月16日西行は73歳の人生を終えました。
終焉の地は河内の弘川寺とされていますが、西行物語にはここ西行庵であったと記されています。

双林寺は度重なる戦乱で荒廃し、西行庵は江戸時代中期に再興、
明治28年宮田小文、富岡鉄斎らによって西行堂、母屋、茶室など現在の姿に復元されました。

隣には西行の跡を慕って訪ねてきた俳聖芭蕉をしのんで、
天明3年(1783)俳人高桑蘭更が建てた芭蕉堂があります。

この双林寺には西行の他鬼界ヶ島に流された平康頼、
南北朝の歌人頓阿も隠棲したことがあり、3人の供養塔が残されています。

 西行庵入り口
 双林寺
              
 
 芭蕉庵
 左から頓阿・西行・平康頼供養塔