落柿舎

 寂庵の近くには向井去来の庵落柿舎があります。
むかし庭には40本の柿の木があり、たわわに実った柿の実を京の商人が来て、
一貫文を払い全てを買う約束をして帰りました。
しかしその夜強い風が吹いて、柿の実はほとんど落ちてしまい、去来は商人に金を返してやったといいます。
以来去来は「落柿舎」の主と名のりました。

芭蕉は門人去来の落柿舎を3度訪れています。
元禄4年(1691)2度目に訪れた時は、4月18日から5月4日まで滞在して嵐山に遊び、北嵯峨の祭りなどを楽しんでいます。
その日々を記したのが芭蕉の「嵯峨日記」です。
嵯峨日記の最後にあるのが、「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」の句です。

しかし当時の落柿舎は下嵯峨野あたりにあったといわれ、その後行へが分からなくなっていたものを、
明和7年(1770)義仲寺住職であった俳人井上重厚が、現在の地弘源寺跡に再建しました。

  落柿舎
 
落柿舎室内
 
             
 
玄関に蓑笠あれば去来在宅  なけれ不在を示す

芭蕉「五月雨や…」の句碑