伏見城の戦い

慶長5年(1600))6月家康は、上洛の指示に従わぬ上杉景勝を征伐するため、
会津へ向けて出発します。

その留守に家康を追って、石田三成らが伏見城を攻めることが予測され、
家康は決死の籠城を覚悟する鳥居元忠にあとを託しました。

西軍からの伏見城開城要求を元忠は拒否し、
7月19日西軍4万の兵が伏見城を包囲
1800の籠城兵は8月1日まで奮闘しました。 関ケ原の前哨戦です。

しかし、西軍水口城主長束正家は、城を守る甲賀衆に家族を人質しにとって寝返を迫ります。
やむなく謀反を決意した甲賀衆は城に火を放ち、ついに伏見城は落城し、元忠も最後を遂げました。

その時の戦死者380人の血が城の廊下に染み付き、
今京都の正伝寺など8ケ寺に供養のための血天井として残されています。
写真の治部池には、今も戦場となった古城の面影がしのばれます。

上林竹庵は元家康に仕えていましたが、茶道に専念するため宇治に帰っていました。
しかし、家康への御恩を返すのはこの時ばかりと伏見城に入り、共に討ち死にしました。
家康は竹庵の誠意にこたえるべく、後に上林家を宇治の代官とし、
茶師を統括する茶頭取に任じました。
それが今に続く宇治の茶舗上林春松本店です。


復元 天守閣
 
 復元 伏見城石垣
 
                 

西賀茂 正伝寺の血天井
 
 宇治 上林春松本店