二条城

関ケ原の戦いで天下を制した家康は、
朝廷の守護と上洛時の宿泊所として二条城を造営します。

慶長8年(1603)3月25日征夷大将軍となった家康は二条城から御所へ向かい拝賀の礼を行い、
27日には二条城に勅使を迎えて将軍宣下の賀儀を行いました。
慶長10年将軍職を秀忠に譲ると、秀忠もここから御所へ参内しています。

慶長16年後水尾天皇の即位に合わせ4年ぶりに上洛した家康は、
孫娘千姫の婿である秀頼を二条城へ招き会見しました。
淀殿は秀頼の上洛が、徳川の配下とみなされることに抵抗しますが、
加藤清正や浅野幸長の説得で会見は行われました。

この時家康は秀頼の立派な成長ぶりに驚き、家康死後の徳川家の将来に不安を覚えて、
大坂冬の陣,夏の陣を決意し、豊臣家滅亡の因をなしたといわれます。
二条城はその時の本陣でもあります。

家康の死後は秀忠の娘和子が後水尾天皇のもとへ入内し、
寛永3年(1626)9月26日には、家光、秀忠が後水尾天皇と和子を二条城へ迎えています。
この行幸が二条城の華やかな歴史の区切りとなり、
あとは慶応3年(1867)10月14日慶喜による大政奉還がここで発表され徳川幕府も終わりを告げました。


  二の丸御殿             
 
 大手門
               

唐門
 

 天守閣跡からの京都市内展望