方広寺 豊国神社

秀吉は文禄4年(1595)東山の麓に大仏を鋳造し、方広寺としました。
しかし翌年の慶長大地震で倒壊、秀吉の死後秀頼は遺志を継いで大仏殿を再建しました。

慶長19年(1614)大仏開眼法要を前にして、
家康は梵鐘に刻まれている「国家安康 君臣豊楽」
の文字が「家康の名を二分し、豊臣を君として楽しむ」といった呪いの文字であるとクレームをつけ、
豊臣方の弁明もむなしく、大坂冬の陣、夏の陣の因となって豊臣家は滅亡しました。

秀吉は死後神になることを願い、正一位豊国大明神として方広寺の隣に豊国神社を建てて祀られました。
慶長9年秀吉の7回忌に行われた臨時大祭礼は町中挙げての盛大なものでした。

しかし、大坂夏の陣による豊臣家滅亡後は、家康は豊臣家ゆかりのものは徹底的に破却にかかり、
秀吉の「豊国大明神」の神号を剝奪し、仏式の戒名を付けて今の豊国神社の裏に供養塔として馬塚を残しました。

豊国神社の参道は新日吉神社の社殿で遮断され、参詣者もないまま社殿は崩壊して消えていきました。
明治13年、豊国神社は方広寺の地に現在の姿で再興されました。



梵鐘 左上の2段になった白い部分が「国家安康 君臣豊楽」の文字

 豊国神社 唐門と秀吉の像
 方広寺 大仏殿跡
 
            
 
方広寺石垣
 
 馬塚  秀吉供養塔