東本願寺 西本願寺

今年令和5年は浄土真宗の開祖親鸞聖人生誕850年にあたります。

元文元年(1532)六角氏と日蓮宗徒により真宗の山科本願寺は焼かれ、
本願寺第10世証如は、大坂の石山本願寺へ移りました。

しかし、天下布武を掲げる信長は石山本願寺に寺領の明け渡しを命じ、
元亀元年(1570)それを拒否したことから11年にわたる信長との石山合戦が始まります。

天正8年(1580)朝廷の斡旋を受けて第11世顕如は和解に応じ、紀州鷺ノ森に移りますがますが、
顕如の長男教如は徹底抗戦を主張して石山本願寺に残ります。
やがて教如も石山本願寺を明け渡しますが、顕如との親子の間に不和が残りました。

天正19年秀吉は顕如に堀川七条の地を与え、西本願寺と呼ばれる本派本願寺が誕生しました。
顕如の没後、教如の母は夫顕如の遺志が本願寺を三男准如に継がすことにあったと訴え、
秀吉によってそれが認められると教如は外され、本願寺派第12世門主は准如となりました。

家康が関が原を制すると、教如は家康との親交を深め、
家康も真宗の勢力を分散させることもあって、慶長7年(1602)大谷派12世教如に烏丸七条の地を与えました。
これによって本願寺から分離した東本願寺と呼ばれている大谷派本願寺が誕生しました。




東本願寺 御影堂(重文)


 東本願寺 御影堂門門(重文)
  
 東本願寺 第8世蓮如上人像
      
西本願寺 阿弥陀堂(国宝)と水ぶきの銀杏   堀川通りから見た西本願寺