銀閣寺(慈照寺)

 ひっそりと奥まって寂びた感じのする総門をくぐると、中門までのしばらくは銀閣寺垣と呼ばれる竹垣と、天を画して整然と刈り込んだ椿の生垣が続く心静かな参道である。
庭園の入口に「宝処関」の扁額を掲げた小さな唐門があり、そこを入るとすぐ正面に花頭窓を通して庭が見られる。
本堂の縁側に坐し、裏山を渡る風に耳を傾け静かに黙想すれば、ありし日の足利義政がしのばれてくる。

 嘉吉3年(1443)、義政は9歳で足利八代将軍を継いだが、その後の戦乱の世を治するには、彼はあまりにも文化人、趣味人であり過ぎた。
各地に蜂起する土一揆、そして寛正2年(1461)の大飢饉では、僅か二ヶ月間の洛中の餓死者が八万二千人を数える惨状を呈した。
更に、応仁元年(1467)には、義政の継嗣をめぐって応仁の乱が勃発し、京都は11年間戦乱の巷と化した。
   
銀閣寺総門
 
銀閣寺垣の参道
   この荒廃の中で、将軍義政は為すすべもなく政治に倦み、その職を義尚に譲り、不安と絶望からの逃避を風雅の道に求めた。
義政のその精神的苦痛から生まれた悟りの世界を、芸術としてのわび、さびの境地に昇華させ、東山文化を築き上げたのである。

 文明14年(1482)、義政は東山山荘の造営に着手し、翌15年常御所の落成を待ちかねてこの地に移り、その後、東求堂、西指庵等十二棟の殿舎を建てたが、最後の銀閣の完成を見ずして、延徳2年(1490)正月7日56歳の生涯を終えた。

 義政の没後、その遺志により東山殿は臨済宗相国寺派の禅刹となり、彼の院号に因んで慈照寺と称した。
しかし、天文の兵火によってそのほとんどの堂宇は焼失し、当時をしのぶ建物としてはわずかに銀閣、東求堂を残すのみである。 
 
    銀閣

 銀閣(国宝)と呼ばれる観音殿は、宝形造り重層柿葺の瀟洒な楼閣建築で、その閑雅な姿をいつも前池に映している。
下層の心空殿は、腰高明り障子をめぐらした和風書院造で、上層の潮音閣は花頭窓を配した唐様の禅宗仏殿風に造られ、内部須弥壇に観音像を安置している。

 銀閣は義満の金閣を模して造られ、ともに一層は住宅建築であるが、金閣の王朝風寝殿造りの華やかさに比して、銀閣の書院造りには枯淡の味わいがある。
また、金閣の金箔貼りに対し、銀閣は黒漆のままで銀箔は貼られていない。

    東求堂

 東求堂(国宝)は義政の持仏堂として建てられ、桧皮葺単層入母屋造りで、初期の住宅風建築として貴重な遺構である。
内部仏間には、阿弥陀如来と等身法体の義政像を安置し、また、東北角の同仁斎と呼ばれる四畳半の室には、北側に附書院と違棚が並べて設けられ、古い書院建築の特色をよく残している。 
ここが四畳半茶室の濫觴とも伝えられるが確証はない
 
   
銀閣と錦鏡池
 
左 本堂  右 東求堂  
   東隅には苔むした石組みの上から、洗月泉と呼ぶ滝が一条静かに池へそそいでいる。
義政当時の面影は、東求堂前の中島や滝口の石組みに残されているが、現在の景観は元和元年(1615)宮城丹波守豊盛が大改修を行った時にほぼ整ったものと考えられ、本堂前の白砂を盛った銀砂灘と向月台もその時の添作である。
 
   
富士型の向月台と手前白砂の銀砂灘
 庭園は義政の好んだ洛西西芳寺の庭園を模して造られ、上の庭は枯山水、下の庭は池泉でもって構成されている。

 下の庭は、瓢箪型の錦鏡池を自然石の橋で二分し、東部は東求堂、西部は銀閣に面しており、それぞれに中島と各大名の寄進になる大内石、細川石、畠山石等の名石を配した雅致ある回遊式庭園である。
 
   
洗月泉
   
 この庭園の作者については、従来相阿弥であると伝えられているが根拠はなく、当時の著名な作庭家善阿弥の遺志を受けて、子の小四郎、孫の又四郎が完成させたと考えられる。
 銀閣寺の庭園に佇み、東山文化のわび、さびの心に触れる時、藤原定家の
   「見渡せば花も紅葉もなかりけり
          浦の苫屋の秋の夕暮れ」
という和歌の持つ心こそ、茶道のわびの精神であるといった茶人武野紹鴎の言葉が思い出される。
                    

上の庭園から銀閣を望む  
   上の庭は久しく埋没していたものを、昭和6年に発掘したもので、東北隅には義政が愛用したお茶の井泉の石組みがあり、今も清らかな水を湧出し、その南に漱蘇亭の礎石がある。

更にその山頂には超然亭があったというが今はなく、展望順路からの市中を望む景観に昔がしのばれる。 
   
漱蘇亭石組とお茶の井