霊鑑寺

 霊鑑寺も安楽寺からほど近い。
その昔、格式高い尼門跡として栄えたこの寺は、今は時代の変遷を他所に、門を閉ざして訪れる人もなくひっそりと息づいている。
平安朝の頃、この辺りに建てられた名刹如意寺は、やがて廃寺となって本尊如意輪観音と霊鑑だけが伝えられていた。

 承応2年(1653)後水尾上皇はその本尊と霊鑑を移し、皇女谷の宮を開基として臨済宗霊鑑寺を建てられた。
以降、二世の後西天皇皇女普賢院宮を初め歴代皇女、王女が入寺され、鹿ケ谷比丘尼御所、あるいは谷の御所とも呼ばれている。
また当寺には、皇室より下賜された多数の人形が蔵されていて、庭の後水尾上皇遺愛の散り椿とともに優雅な昔がしのばれる。
本堂は享和3年(1803)、徳川家斉の寄進によるもので、表門、玄関、居間は貞享4年(1687)後西天皇の旧御殿を拝領したものである。


   
霊鑑寺 山門


 楼門の滝
   
             鹿ケ谷

 霊鑑寺から東へ500メートル、人家を離れて林道となるところに「俊寛僧都旧蹟道八丁」という道標がある。
そこから左へ急坂を登りつめると、滝の流れ落ちる音が響き、「俊寛僧都忠成碑」と刻まれた自然石の大きな碑の前に出る。
滝を「楼門の滝」と呼び、その昔栄えた如意寺の楼門の跡と聞く。
そしてこの辺りに俊寛の山荘があったと伝えられているが定かではない。

 平家全盛の治承元年(1177)、法勝寺執行俊寛のこの山荘に、風雅の会にこと寄せて、密かに平家討伐を謀る一団があった。
朝廷の政権回復を企てる後白河法皇を中心として、山荘の主俊寛、平家専横の叙位叙目に憤る大納言成親、それに西光法師、藤原成経、平判官康頼等はここで密議を重ねた。
しかし、ことの成り行きに不安を抱いた多田行綱の密告によって、清盛の知るところとなり、後白河法皇は鳥羽殿へ幽閉、西光法師は斬られ、成親は備前へ、俊寛、成経、康頼の3人は鬼界ヶ島へ遠流された。

 碑の近くにはいつの頃のものとも分からぬ石積があり、いかにも伝説の地としての趣きが今なお残されている。 
 

 俊寛僧都忠誠の碑

               哲学の道

 鹿ケ谷からの道を真直ぐに下ると疏水端に出る。
この疏水は蹴上で本流と分かれ、南禅寺を抜け、若王子から銀閣寺へ山裾をぬって静かに流れている。

 疏水に沿った桜並木の散歩道を、誰が名づけたともなく「哲学の道」と呼ばれ、かっての京大教授であり、哲学者でもあった西田幾多郎、田辺元等が思索にふけり、逍遥した道である。
 
 ある時代には弊衣破帽のバンカラ学生が、デカルト、カントを論じ、恋を語り、高歌放吟し、京都で学生時代を過ごした誰しもが懐かしい道である。  時代は移ろい、今は青春を語り合う若者の姿も華やかで、芝生と柵で整備され市電の石畳が敷かれた道は明るく心楽しい。
 しかし、岸の石垣を洗って流れる水は、昔のままであり、春風に吹かれて散る桜の花びらが水面に落ち、ところどころの水草にもつれては流れてゆく風情も変わらない。

     疏水は 春は花びらにうずもれるのだった。
その花びらの上に また花びらが舞い落ち、
二重にも三重にも重なり合ってゆるやかに
流れていった。
十二、三町の長い流れが そのころには
桜のはなびらにおおいつくされ、水の面を
ひとところも見せなかった。
桜の花びらが流れつくすと、
季節は部屋に移ってゆくのだった……

田宮虎彦「琵琶湖疏水」